澤井弘行(さわい・ひろゆき)74歳沢井製薬会長
<薬局から医薬品メーカーへ>自宅近くに両親が開いた薬局があり、高校生の頃に薬の袋詰めの手伝いなどをしていました。家内工業みたいな感じですね。薬剤師になるのが当たり前だと思っていて、大学院生の時に両親の薬局に入社した時も、あまり深くは考えていませんでした。目が覚めたのは、大学院修了後、経営に本格的に携わるようになってからです。当時の工場は木造のバラック、社員も30人程度で、経営状況は厳しかった。まずは経営のコツをつかもうと、松下幸之助さん、井深大さん、本田宗一郎さん、有名な経営者の本をすべて読みました。その中で、経営には何よりもスピードが大事だということを学びました。その頃、後発(ジェネリック)医薬品メーカーに業態転換しました。1961年に国民皆保険制度が始まったことで、町の薬局で薬を買う人が減り、病院に通って安い薬を買う人が増えると考えたからです。特許が切れた新薬の仕様書を手に入れて、同じ成分を使い、同じ効果がある後発薬の開発を進めました。参入業者は多く、競争は厳しかったのですが、救いだったのは、得意の抗生物質が売れたことです。医薬品市場の拡大も追い風になり、71年度には売上高が10億円を超え、業績は伸び続けました。
<新工場建設が裏目> 市場の伸びに合わせて生産能力を高める必要があると考え、専務時代の81年、当時の年商の3割にあたる20億円を投じて九州工場を建設しました。しかし、これが裏目に出ました。厚生省が3年連続で後発薬の新規販売を認めなかったのです。お金をかけて設備を用意したのに、作る薬がない。それまでに製造していた薬の販売で何とか乗り切りましたが、行政のさじ加減一つで生き残れるかどうかが決まるのだ、と痛感しました。当時、後発薬は「ゾロ」、「コピー」と言われていました。特許が切れた後にゾロゾロ出てくる、という意味です。病院も不信感を持っていたようで、医者から「表から入ってくるな。裏門から入ってこい」と言われたり、新薬メーカーの担当者には会うのに我が社の担当者には会ってくれなかったりすることもありました。
<会社の信用を高めるため株式を上場> 会社の社会的信用を高めなければいけない。そう思って、95年に株式を店頭公開し、2003年には東京証券取引所1部への上場を果たしました。全国紙に全面広告を出し、テレビコマーシャルも流しました。後発薬の地位を高めたい、国民の医療費負担を減らすには後発薬が不可欠だ、という信念があったからです。
<赤字転落で新薬開発から撤退> それでも、新薬重視の風潮は根強く、後発薬の地位向上は容易ではありません。優秀な社員を引き留める必要もあり、88年に新薬開発に乗り出しました。多額の費用がかかり、成果が出るまで時間がかかる新薬開発は、経営の重しになったことは確かです。さらに、96年度から3年連続の薬価改定で、後発薬が引き下げられたことも響き、97年度の税引き後利益は赤字に転落しました。株価は店頭公開時点の10分の1まで下がり、会社には「詐欺師の社長を出せ」という抗議が殺到しました。役員報酬を半減し、管理職の給与も大幅カットするなどのリストラを迫られ、新薬開発は断念せざるを得ませんでした。この頃が一番苦しい時期でした。今は、行政も後発薬の利用を後押ししています。高齢化で医療費が膨らみ、財政を圧迫しているため、効き目が同じなら安い方が良い、と後発薬の処方を促す方向になりました。潮目が変わり、陰に隠れていた時代は終わりましたが、後発薬には海外勢や日本の新薬メーカーが続々と参入しています。生き残るために何をすべきか。海外展開やM&A(企業の合併・買収)も視野に、これまでにない大胆な経営が必要だと考えています。(聞き手井戸田崇志)
国民皆保険制度 健康保険証1枚で、誰でも自由に医療機関を選び、低額の自己負担で治療を受けることができる制度。税金や保険料によって国民全体で支え合う仕組み。加入する保険は職業や年齢によって異なる。 ◇(略歴)1938年、大阪府生まれ。63年入社、66年大阪大院薬学研究科修了。常務、専務、社長を経て2008年6月から会長。毎朝、健康管理のため9階の執務室まで階段で上がる。「過てば則ち改むるにはばかることなかれ」。孔子の言を肝に銘じているのは、環境の変化に対応し、迅速に決断するためだという。
《こんな会社》1929年に大阪市で創業。79年に現在の社名となった。大阪や千葉など国内5工場で、生活習慣病の治療薬や抗がん剤など約580種の後発薬を製造。2012年3月期の連結売上高は676億円、従業員数は991人。(2012年8月6日 読売新聞)
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